ごみ捨て場
今、呼吸をしている私は、あるいは外に出て辺りをうろつく私は、生きていると言えるのだろうか。 語ることに意味をなさない疑問が、ぼやけた視界と思考の中で渦を巻いている。 この実存的危機に直面し、至る所でランダムに発生する小さな危険。 それらは一歩引いて観察すれば、蟻の生死と同様に誰の興味も引かない。
自分がどこにいるのか、自分が何を考えているのかさえも不明な状況に投じる石はあるか。 例えば、わかりやすいダイナミクスに身を置き、刹那的に生きれば幸せになれるのか。 経済的な成功、社会的な栄誉、望んだ恋愛が成就した際は幸せか。 決定的な誤りだ。 最初のうちは良いだろうが、いずれ理解するダイナミクスの構造はそれらを毀損していく。 それは個別的な事象に限らず、幸福そのものが一時的なものであり、結局は刹那的で相対的なものだ。 幸せとされる事象は私の中で分解され続け、発生した幸せという記号の観察者としての役割のみを果たすことになる。
そのような幸福も不幸もない平坦な場所に映るものは、幸福のための不幸、不幸のための幸福が同時に存在する構造であり、現実である。 構造は真理であり、真理は不幸そのものだ。 構造がもたらす結果そのものではなく、構造がもたらす変更不可能性という、決して変えられぬ現実に頭を抱えるのだ。 虚無の中で最後の思考を終えるまで存在し続けること自体が不幸であるから、現実逃避への羨望は常に膨んでいく。 淡々と繰り返す私の運転は、途中で脱線しても予定通りになろうとも、行き着く先は変わらない。 大きな夢を待ち望み、現実を走り抜けて逃避した先には、やはり構造が佇んでいる。 長い旅路に疲れた私は、きっと待ち望んだ幸福を手に取り、束の間の高揚感を飲み込んで、自ら現実へと再び足を踏み入れるだろう。
この輪廻に夢はない。 嫌気が差した仕事の生活に訪れる金曜日の夜を抜け出した自由な生活、待っているのは新たな嫌気。 何度か繰り返すうちに背後の無情さを凝視する目が瞼を開けて、映りゆく全ては記号へと変身する。 懸命に辿った軌跡に浮かぶ星座は、最後のノートに私自身の無意味さを描く。 ままならぬ現実から目を背け、輪廻での刹那的な瞬間に必死な感情をぶつける私の姿がそこにある。 蟻の生死をただ再生する悪夢から私を目覚めさせるもの、それは疑いようのない不幸だろう。