ごみ捨て場

代わり映えしない日常というものを感じた
これは一種のデジャブであり、私自身の過去への憧憬を含む体験、二者間の矛盾に対する事情の一般化例というものがいかに現実に即していないのか、ということを克明に表している。
薄められた現実感が私の多くそこにある焦燥感として存在そのものを示し、
私が向かう先というものが空想の世界に限りなく近しい空しさにあるのではないのか、と車窓に映る空間を見ていた。
いかに自由になろうとしても、いかに荒唐無稽に振る舞おうとも、
その動機は不自由でどこまでも正しいあり方に対するアンチテーゼにしかなりえず、その形式も在り方のサブタイプを抜け出せないのである。
こうした論理的な形式、目的地の自由というものは見過ごされがちではあるが、
表面的に自由を語るばかりでは、いずれ「自由」を手に入れた現の奴隷として正しく生きる人生をどこか疑問に思いながら、人としての残り僅かな時を無意味な取り組みに投じることになるだろう。
であるから、私としては目的地の自由を考え、ある程度の解を発見するということを第一の課題としたい。
世界を見た時、その良し悪しを決定しているのは私である。
実際、街を走る車や高校生、スーパーの前を通る人々は何ら変わっていない。しかし、それに対する私の評価的感情は極めて不定である。
その光景を見て「前時代的で古めかしい」と言う事もできるし、「古き良き光景」とすることもできる。
ならば、この差異は何であるか。
私という存在が同一であるなら、こうした何を良しとするか、という倫理的問題についてどうして時間的差異によって不定になるのであろうか。
他の説によれば時間が違うなら私という存在の同一性は成り立ち得ないともできる。
あるいは、私の思う知識と身体の融合体が私であるとする立場にあって考えてみるなら、
私はどこまでも機械と変わることはなく、私の理性の出力は2つの変数に寄って定められる。
そうした理性的な取り組み、論理的に真偽が明らかにならない問題というのは
観察者関数に入れられた2つに左右される不定で不自由な霧のようなものである。
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