もし価値というものが
「Xにとっての」
という接頭辞がつかなければ存在しないとしたら
自由や革新というものはすぐさまに個人間やパラダイム間における分断を巻き起こすだろう。
全体主義はそういった考えにおいて、価値を形成するベースに成る。
その場合のパラダイムではあらゆる意思は否定され、個人は統計上の存在として表される小さなものとなる。
したがって美学や倫理など、他の人間への認識に作用する、させようとする言説は等しく啓蒙的であり、
その作用形態と説を取り巻くライフサイクルは全体主義のそれである。
私が社会に対して感じる気味の悪さはそれであり、あたかも自由であるかのように見せかけて近づくそれらは
敵以外の何物でもない。
これは他人との関わりの限界で、なにかを語るという行為は原理的に上記に従うしかなく、繰り返される対話と他者理解が目指す目的は同質化そのものである。
人は自らのハードウェアに課せられた目的をとうの昔に理性に寄って解決した。 今起こっている理の問題は人の生きる理由、生まれたときから誰しもが持つ「種の存続」という遺伝子による啓蒙を通り過ぎている。
その次の目的はほとんど無意味なもので、最終的には実存の問題、私だけの問題だけが世界に残る。 これは、今を生きる存在は死、私の消滅という時までの暇つぶし程度の活動に終始するしかないことを表しているのではないか。
世界は私のみを持つ
私の目に映る世界、考えられうる物質と精神は全て私の物である。
それらをどのように扱って生きるかは、私のみが決められる必然性に帰結する。
この世界において意思を持ち、理性を持つのは私だけである。
私が死んだあとにはすべての物質は消え、精神の全てもなくなってゆく。
そこに歴史はなく、現象の残り香のみが残る。
そして、そのときにどのように生きたかなどの全ての価値基準は存在しない。
「死」という未来は今における私の実存を見えやすくする。
社会的な最大幸福を目指した宗教は死後の世界を説いているが、それを否定することで初めて本当の意味で社会を否定した選択をとれるようになる。
壮大なひまつぶし。