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幸福は人生の目的としてみな等しく
他の目的を内包するものだろうか。
実際には「である」ではなく
「であるべき」という道徳が支配的である。
現在成り立っている社会的な仕組みが
根底から覆されてしまう。
実存において幸福とは
数学の公理系、宗教の神である。
それを信じるのは、現実を、私の実存というグロテスクで確かにそこにあるものから目を背けるということだ。
幸福、幸せとは似ても似つかない「自己目的化」された願いはどうしようもなく世界に広がっているし、それはまさに実存にとっての公理である。
自己にとって目的とはそれ以外になく、それがどれほどに「悪い」ことであっても即座に実存にとっては肯定される。
重要なのは、何故にそれを目的とするのか、そして肯定されるべきものか、を語ることは全く無意味ということだ。
それは、分析と一般化の目的とするところ、社会における公理とは実存において無関係だからだ。
声高に叫ばれる道徳は全体最適の結果であり、それを信じなければならないという信念は実存の形態を無視している。
こうしたことを考えると、ある種のやるせなさ、実存に対する一般化の不可能性について何処か空虚感を覚える。
みな、この論理の冷たさに嫌気がさしては絶対的真理を追いかけてゆく。
ただ、その語るという行為が論理形式に従っている以上、それに逸脱した
という語り口は成立せず、宗教と何ら変わらぬトリレンマに見を投じるだろう。
浮世離れした空間の中で。
彼らが絶対的存在を求め、問おうとするのは
それそのものが自己目的化された「救いへの願い」だからだ。
唯一明らかになったのは、無根拠になにかを信じる、幸福を超えた「信仰心への意志」ではないだろうか。