ごみ捨て場
幼少期、学校にも行かずに家で一人でに図鑑や本、インターネットと戯れていたことを思い出す。
当時は家庭の環境が悪く、片親家庭の団地住みで母親の借金取りや行政の人間、裁判所の強制執行官、母親の愛人のヤクザものなどがぞろぞろと家に上がり込んできていた。
やはり、そのような状況で学校にも行っていないので、私生活は荒れるばかり。義務教育すら受けていない。 最終的には母親は家賃を払えなくなり、援助を求めた親族からも見捨てられ、私は児童養護施設に入った。 これが私の形成期だった。
「運」
である。私はたまたま内向的な性格で一人で何かをするのが苦ではなかった。
私の家には飯を喰う金もないのに運良くPCが家にあった。
道徳というものがほとんどないような環境であった。
私はたまたまプログラミングの才があった。
私は運良く学校にも行かずにPCばかり触っていることを止められなかった。
私の邪魔をする人もいなかった。
本当にただそれだけである。
そこに「恵まれない環境から強い努力で...」のような、一切の美談はない。
必然性のみが姿を表している。
マイケル・サンデルが行ったメリトクラシー批判についてほとんど同意している。 ただし、私にとってそれは社会的な格差において不平等で公正でない、という文脈の批判ではない。 私の意志や能力が構造によって、ただ蓋然と表象することを告発するのだ。
道徳を説く者たちは意志の表象プロセスをないがしろにし、結果のみを評価している。
その光景は選民思想に支配された世界であり、それらは「Xであるべき」を定義し社会一般に説き、
「Xでないもの」を排除し切り捨て、それらを道徳の庇護の対象外としていく。
そうしないということは社会において「Xでないもの」の存在を許容することに等しく、その論は影響力と居場所を失う。
時々、PC等に興味を持たずに進んだ自身を空想し、道徳に見捨てられた現実世界の人たちを考えている。 自身の可能性とニュース一面に映る自暴自棄な無差別殺傷犯を見比べ、 どうすれば彼らを非難する資格があるのか、彼らとはどこかの私ではないのかと。
最後まで道徳と運に見放された彼らには一瞥の同情もない。 仮に誰も切り捨てられない道徳が存在できたなら、世界は意思を要素に持たないだろう。