ごみ捨て場
無根拠になにかを正とする。
なにかを信じるということはどのようなことか。
xがyによって必要十分に演繹的に成り立つとき、現実にはxの真偽によらずyを信じる人々が存在する。
それはyを教祖とする宗教の枠組みであり、yを疑い得ないパラダイムの存在を示唆しており、
yがどれほどに些末なものであったとしても、たとえな「朝起きて食べるのはパン」をあらゆる理由付けなしに正とするのである。
このとき、yについて知ろうとすればパラダイムの乱立を招く。 なぜなら文章として成立しているものについては「論理的探索」が無制限に、どこまでも可能であるからだ。
上の例では「朝とは何時か」「パンはどこまでパンなのか」「パンを食べるべき理由はご飯より美味しいからか」「パンとはなにか」...というようにである。
yの信奉者同士はその共通点において対話ができるが、その事実は彼らをパラダイム間の論争から遠ざけるには不十分であり、 いずれに完全な善意によってyの探索...言い換えるなら真理の探究が始まる。 それを繰り返すうちに最初はy教における道義の範疇であった小さき分析命題は新たなパラダイムを生み出す。
ある論理的要素がパラダイムを作るとき、その要素には信奉者がいる。 彼らにとってそれら決して他要素からの演繹によるものでなく、論理的な使役と必然性を否定する。 実存において論理の結びつきは同一でない。 他者が実存の信仰するyに対し、x -> yを述べたとして、 実存にとってはx -> yでなくy -> xと”信じている”。 パラダイムの絶対的存在yへの上記のような論理的上位概念の提示は無駄である。
つまり、実存の生きる現実では論理の発揮する力は限定的である。 世界、現実、論理は一様の解を持たないのだ。 それぞれは自己言及をすることでしか姿を現せず、その在り方はパラダイムの教祖そのものであり、 ある要素が宗教的存在であるか否かは論理空間における真偽によらず、実存からの評価のみに依存している。
異なる絶対者を持つパラダイム間をつなぐにはどうするべきか、私の所感としてはそれぞれを圏として捉え、 その関手について表現してみることが前進への一歩なのではないかと考えている。